2025年5月18日 復活節第5主日(C年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭:林和則

*18日の主日の9時半のミサは「子どもとともに捧げるミサ」で捧げましたので、説教も子どもたちに向けて行いました。今週の「説教の要約」は7時のミサの説教の要約です。

第一朗読「使徒たちの宣教14章21b―27節」

本日の第一朗読はパウロの第1回宣教旅行の帰路について書かれています。パウロの最初の宣教旅行は紀元46―48年頃、シリア州のアンティオキアから出発してキプロス島と小アジア(現在のトルコ)の町々を巡って行われました。「町々」といっても、「町々」にあったユダヤ人の居住地(ディアスポラ)の「会堂(シナゴーグ)」を拠点として宣教は行われました。パウロとバルナバは安息日に会堂に行き、そこで行われている礼拝と集会に参加して、当地のユダヤ人共同体に向かって語りかけたのです。

ただ、ここで誤解してはいけないのは、パウロはけっして「ユダヤ教の会堂」を「キリスト教の教会」に「替えよう」としたわけではありません。この時代ではまだ、「キリスト教」は新しい宗教として誕生してはいなくて、あくまでもパウロはユダヤ教の枠内にあって、ユダヤ人が長らく待ち望んでいたメシアこそがイエスである、という信仰をユダヤ人の中に根付かせようとしていたのです。言うならば、それまでの「ユダヤ教」を「イエスをメシアとして信じるユダヤ教」に変えたかったのです。ユダヤ教の指導者にしてみても、十字架によって殺されたナザレのイエスが復活した、彼こそがメシアであったと信じる人びとはあくまでも、ユダヤ教の中のひとつの集団であるという認識で「ナザレ派」と呼んでいました。

キリスト教が完全にユダヤ教から分離して、新たな宗教として誕生するのは、ユダヤ教の指導層(ファリサイ派)が90年にナザレ派を会堂から追放するという決定を下してから以降のことです。

パウロとバルナバの宣教で特筆すべきことは、彼らが絶えず、自分たちの宣教旅行を「自分たちの働き」ではなく「神のわざ」として考えていることです。

パウロたちは各地で作り上げた「教会(建物ではなく、イエスをメシア=キリストと信じる人びとの共同体))」に「長老たちを任命(23節)」します。「任命」された人びとは、パウロたちの判断で選出されたのでしょうが、選出するに当たってパウロたちがよく祈ったことは間違いありません。イエスが十二使徒を選ぶためにひと晩中、祈られたように(ルカによる福音6章12―16節)。

そして任命した後も「断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた(23節)」のです。つまり、あくまでも長老たちを指導していくのは、自分たちではなく、主イエス・キリストご自身であることを、パウロたちはわきまえているのです。

もしパウロたちが教会をいつまでも自分の勢力下に置いておこうと考えていたならば、長老たちを自らの指導下に置こうとしたことでしょう。けれども、パウロたちは「教会」は「自分たちのもの」ではなく、「キリストのもの」であると信じていたのです。

そしてパウロとバルナバはアンティオキアの教会に帰着して、宣教旅行について報告をしますが、次のように書かれています。

「神が自分たちと共にいて行われたすべてのこと(27節)」

主語は「神」であって「自分たち」ではないのです。すなわち、宣教旅行を行ったのは「神」であって「自分たち」ではないのです。パウロとバルナバにしてみると、「自分たち」は神が宣教を行われるに当たって使ってくださった「道具」にすぎないのです。

パウロは「コリントの教会への手紙一」で、コリントの教会を創設するに当たって働いた自分とアポロについて、このように書いています。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です(3章5―6節)。」

ここでもパウロはコリントの教会を創設したのは神であって、自分たちではない、自分たちは神のわざに仕えた者にすぎないと言っているのです。

私たち司祭も信徒も教会のために働く時、このパウロの姿勢を大切にしたいと思います。

まず、教会は「私のもの」ではなく「キリストのもの」である、ということです。そして、働かれるのは神であって、私たちは神の道具にすぎない、ということです。

第二朗読「ヨハネの黙示21章1―5a節」

典礼暦C年では、復活節の主日の第二朗読では「ヨハネの黙示」が読まれます。本日は、「ヨハネの黙示」全22章の最終的な箇所が読まれます。そこに書かれていることは、世の終わりには、「聖なる都、新しいエルサレム(2節)」が「天から下って来る(同節)」のです。「天」は空間的な「空」ではなく、「三位一体の神の座」です。だからこそ「神のもとを離れ(同節)」と書かれているのです。

「新しいエルサレム」については、本日の「聖書と典礼」の注釈において「キリストの花嫁である教会を指す」と説明されています。ただ、この「教会」は「天にある教会」です。それに対して、私たちの教会は「地上にある教会」であると言えるでしょう。「天にある教会」は完全です。けれども「地上にある教会」は不完全な私たち人間の集いですから、やはり不完全です。私たちの「教会」は人間関係のトラブルなどによって、いつも「傷」ついています。しばしばその「傷だらけの教会」に失望して、教会を離れてしまう人びともいます。

けれども、「傷」を負っても、また立ち上がり、互いにゆるし合い、支え合って、「天にある教会」を目指して歩んで行く努力が大切なのです。それが「旅する教会」の姿です。

その「旅」には希望があります。世の終わりには、「天にある教会」が天から下って来て、「地上にある教会」とひとつになるという「希望」です。

そのとき「教会」は「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会(エフェソの教会への手紙5章27節)」となることができるのです。そして「着飾った花嫁(2節)」となって、キリストの前に立てるのです。

福音朗読「ヨハネによる福音13章31―33a、34―35節」

本日の朗読箇所は、最後の晩さんにおけるイエスの「告別説教」の始まりの箇所です。「告別説教」を始めるに当たって、イエスはまず、ご自分の「新しい掟(34節)」を弟子たちに与えます。

「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(同節)」

この「新しい掟」に対置される「古い掟」は、律法の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい(レビ記19章18)」です。イエスは律法学者から「律法の中で、どの掟がもっとも重要でしょうか(マタイ22章36節)」との問いかけにたいして、この掟と申命記の「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(6章5節)」の掟をあげて、この両者は切り離すことのできないもっとも重要な掟である、と答えられています。

その前者の掟である「隣人愛」についての律法の教えを、イエスは新たにされたのです。旧約の律法においては隣人を「自分自身のように」愛するようにと言われています。イエスはそれを「わたしがあなたがたを愛したように」と言われることによって、隣人を「キリストのように」愛するようにと新たにされたのです。

それは人間的な愛を、神の愛へと昇華させることでした。ある意味、イエスの宣教生活は、ご自分の生き方をもって「神の愛」を人びとに具体的に示すことでした。イエスと出会った人びとはイエスとの交わりを通して「神の愛」を体験することができたのです。そして、究極の「神の愛」が、十字架の死によって示されたのです。

けれども、「キリストの愛」は「天上にある教会」のように、あまりにも遥か高みにあります。最後の晩さんに示された「キリストの愛」は、弟子たちの足を洗ったこと、しかもイスカリオテのユダの足さえも洗ったことです。イスはユダの「裏切り」を悟っておられました。その「裏切者」の前にひざまずくようにしてその足を洗うことが、私たちにはできるでしょうか。イエスはユダの足を洗ってから、ユダを外に出されたのです。私たちでしたら、「裏切者」を先に追い出してから、他の弟子たちの足を洗うことでしょう。イエスはユダの足を洗うことによって、「あなたが私を裏切ろうとも、私のあなたへの愛は変わることはないよ」とユダに告げられたのです。

これが「キリストのように隣人を愛する」姿なのです。私たちは人を愛する場合、どこかで条件付けをしています。「私にとって好ましい人だから愛する」「私にやさしく接する人だから愛する」というように。逆に「好ましくない人だから愛さない」「私に冷たいから愛さない」というように、何らかの条件をつけての愛であって、これは人間的には自然なことであるのかも知れません。

けれども、「キリストの愛」によって示された「神の愛」は、人間的な愛を遥かに高く超えているのです。

「天が地を高く超えているように

わたしの道は、あなたたちの道を

わたしの思いは あなたたちの思いを

高く超えている(イザヤの預言55章9節)」

私たちがキリストのように愛し合うことは、「天にある教会」を目指して歩んで行く努力と重なり合います。と言うよりも、「キリストのように愛し合う共同体」が「完全な教会=天にある教会」であると言えます。

私たちは地上にあっては、「キリストのように愛し合う完全な教会」になることはできません。大切なことは、何度ころび、泥にまみれようともあきらめずに、手を取り合って支え合い、キリストのように愛し合う教会に少しでも近づけるように努力することです。その努力が神の喜ばれる、尊い捧げものとなるのです。