教会創立頃の香里園
教会建設地として選ばれえた香里の丘は、四条畷から枚方にかけての丘陵の中央部にあたり、南に生駒、葛城の連峰、西に淀川と北摂の連山を眺める自然の景勝地であった。そして蹉だ神社、菅相塚など菅原道真の史跡に香しい里として香里と呼ばれていた。明治四十三年に京阪電車が開通し、香里園駅が設置された。京阪電車は沿線の開発を試み、現在の教会や聖母女学院の付近の土地を広範囲に買収し、菊人形館、大運動場を作る一方、桜、楓、牡丹等を植えたり、梅園、菖蒲園の造園をおこなった。今日に見られる教会周辺の素晴らしい環境は、この時代に出来上がったのである。“教会の塔と桜の花”これほど美しい被写体はあまり見られない。復活祭の頃には、丁度桜花爛漫と咲き誇り、道行く人々はカメラにおさめた。 教会建設地の周辺は、桜ヶ丘と呼ばれ、教会は桜林を切り開いて建設された。それまでは桜の名所として訪れる花見客が多く、茶店も出て賑わっていた。現香里幼稚園も、開園当時は「コドモノ桜園」と言う名称であった。香里教会は美しい教会と呼ばれてきたが、その美しさをさらに引き立てたのはこの桜の花であった。
当時の香里園は友呂岐、蹉だの両村にまたがり、友呂岐村の郡、三井、蹉だ村の中振の三大字が香里園を形成していた。人口は昭和七年現在、友呂岐村が九〇〇戸(四二〇〇人)蹉だ村が五六〇戸(四三〇〇人)で、大半は山手の丘陵地に住んでいた。当時の住民は公務員、会社員等、比較的中産階級層が多かった。昭和六年沿線の開発が進み、香里園に急行が停車するようになった。自然環境に恵まれ、交通の便が良いと言う二大条件から、益々住宅地としての発展が期待されるようになった。カスタニエ司教が、北河内一帯の布教の拠点として香里園を選んだのはそのような時であった。そしてその判断は正しく、枚方教会、門真教会、そして四条畷教会を生みながら、尚かつ、教区有数の信者数を有する教会に発展したのである。
香里教会の創立
昭和六年、大阪教区カスタニエ司教は、香里園に教会を建てることを決定し、当時舞鶴教会を担当していたペトロ・マルモニエ神父を初代司祭に選び、教会の建立を命じた。教会の建設は春から秋にかけて進められ、十一月には白い鍾塔を持つ聖堂や、洋風の司祭館等が完成した。続いて教会附属の幼稚園も竣工し、現在ヴェロニカの家と呼ばれている建物も、伝道士杉山国司氏の住居として建設された。教会は使徒聖ヨハネを守護者にいただき、同年十二月二十七日、使徒聖ヨハネの祝日に献堂式が行われた。ここに香里教会が誕生したのである。大阪府下では川口、岸和田、玉造、北野、堺、関目、についで七番目の教会として発足したのである。
でき上がった教会は日本でも指折りの美しい教会であった。聖堂は南欧スタイルで、高い塔、急勾配の屋根、司教冠のような形のステンド・グラス等、ゴシック様式の名残りを留めていた。特に白い鍾塔は、香里のシンボルとして永く地元の人々から愛された。司祭館は今日見る通り、正面の回廊式ベランダが特長であり、コロニアル・スタイル(植民地様式)と呼ばれ、南欧風の美しい建物であった。創立当初は現在とやや異なり、一階も回廊式ベランダであった。そして、これらの聖堂、司祭館、及び附属幼稚園の建設費は、ほとんどマルモニエ神父の私財によってまかなわれたと言われている。マルモニエ神父は、パリ外国宣教会所属のフランス人で、香里へ赴任の前は、玉造教会、舞鶴教会で司牧していた。その間身体を悪くして、香里教会への赴任は、同時に静養の為でもあった。神父を補佐したのは、伝道士杉山国司氏であった。氏は玉造教会、舞鶴教会、そして香里教会とマルモニエ神父の後に従って転居し、神父の手足として働いた。創立当初の信者はこの杉山伝道師の他、六家族約二十名でスタートしている。
着任した神父には、色々やるべき仕事が沢山あった。その中には教会の建設にからむ、地元住民とのトラブルも解決せねばならない問題であった。今から見ればささいなことも、当時の司祭、信者にとっては信仰上の大問題であった。業者の縄張りにからむ問題でどなり込まれたこともあった。とりわけ、アンジェラスの鐘に対する苦情は、今も語り草になっている。鐘の音がうるさくて眠れないという今日の騒音公害にまで発展し、鐘を叩く鉄槌に皮をかぶせて音を和らげることにより解決された。この時神父は「皮はすり減るから、いずれ元の音に戻る」と、いかにも外国人らしいユーモアを混じえて、周囲の人達に説明したと言われる。今日この教会再建の話が噂に流れた時、教会周囲の人々から、塔と鐘は残してほしいと申し入れがあったことを思うと、隔世の感がする。
布教について神父がまず着手したのは、印刷物の配布と個別訪問による伝道であった。神父は以前から印刷関係の仕事を経験し、自分の著作も出版したこともあり、香里での布教に際しても、神父一流の徹底した方法で行なった。「心は叫ぶ」等のパンフレットを五千部印刷し、それを香里はもとより、枚方から寝屋川にかけて、各家庭を一軒一軒しらみつぶしに訪問して歩いたのであった。それは一年がかりの骨の折れる仕事であったが、神父は病身の身体に鞭打って、敢えてそれに着手し、成し遂げたのである。このパンフレットの配布は、当時としては極めて進んだ宣教手法であり、それは香里教会がやらねばならない基礎工事の一つでもあった。又、神父は非常に社交家でもあり、不況の第一は家庭訪問にありと、パンフレット配布と並行して家庭訪問を重視し、実行した。長いあごひげを生やした異人マルモニエ神父は、当時の香里の有名人でもあった。
神父のもう一つの仕事は、教会を美しくすることであった。オルガン、ご像、聖具等は、フランスから取り寄せられた。鍾塔の大時計はスイスから、朝に夕に鳴りひびくアンジェラスの鐘はフランスから送られた。そしてこれらの多くは、今も新聖堂に用いられている。「天主様の聖堂は、いくら飾っても飾り過ぎることはない」というのが神父の口癖だった。花壇に四季の花を絶やさないように、美しい花園が作られた。神父にとって花を作ることは、神を賛美することであり、その花園の園丁であることに大きな喜びを感じていた。香里教会が美しいと言われ、又、教会を美しくしようとする信者の心がけは、創立者マルモニエ神父より受け継いだ伝統であった。
教会が大きくなると、信者間のつながりが薄れてくるが、香里教会は長く家族的な教会であったと言われてきた。この伝統もまた、マルモニエ神父時代に培われたのである。聖堂、司祭館とも洋風建築であったが、聖堂後部に畳が敷かれ、ふすまも取り付けられる等、内部には和風の設計が取り入れられた。ミサが終わると聖堂後部はふすまで間仕切りされて畳の部屋ができ上がり、信者はこの部屋で談笑し、神父もこれに加わった。クリスマスの夜は特ににぎわい、夜明けまでクリスマス・イブを楽しんだ。信者の数の少ない時代であっただけに、信仰を同じくする者同士の心の通い合いが大切であり、人々はミサ後の語らいを通して、互いに近づきあった。
教会の創立とほぼ同時に、幼稚園と聖母女学院が香里の地に誕生した。この両者と香里教会は密接な関係を維持しながら、今日に至っている。
幼稚園の創設は教会の建設と併行して進められ、教会創立に一カ月遅れて、昭和七年一月に開園した。設立当時は教会附属幼稚園として出発し「コドモノ桜園」と命名された。
園長はマルモニエ神父であり、園児は約十名であった。美しい花壇や桜トンネルの間を縫って嬉々としてたわむれ、オルガンに合わせて遊戯している園児の可愛い姿は、正に子供の楽園として人々の目に映ったであろう。翌昭和八年には、園児は五〇人に増えている。
昭和七年二月、それまで玉造教会構内にあった聖母女学院が、香里に移転してきた。フランスの愛徳修道会により、大正十年に創設された高等女学院であったが、香里に移転と同時に小学校も併設された。特長ある教育方針、環境の良い広大な敷地、そして美しい校舎と教育施設は、日本でも屈指の立派な学校と高く評価された。
そして幼稚園、聖母女学院を通じて、教会も人々に理解されるようになり、この中から次第に多くの受洗者を得るようになっていった。
昭和八年四月十三日復活祭の当日、マルモニエ神父は、聖母女学院のチャペルで早朝のミサを終えて教会に帰り、当日の説教の草稿を準備中、原稿を手にしたまま、祭壇の後の香部屋で倒れた。祭壇では神父の古い教え子の一人、山中厳彦神父によって復活祭の荘厳ミサは続けられた。
そしてミサが終わった後、神父は山中神父の手に抱かれ、多くの信者に囲まれてその高貴な生涯を閉じた。日本に渡来して三十三年間、日本の兄弟を心から愛した司祭であった。
(創立四十周年記念誌「よろこび」より抜粋。文章中の表現は当時(1971年)の描写をそのまま転載しています。)