2025年5月25日 復活節第6主日(C年)のミサ
カトリック香里教会主任司祭:林和則
本日の第1、第2、そして福音朗読を通して語られているのは、「聖霊」の働きなくしては人は何事もなし得ない、という教えです。
第一朗読「使徒たちの宣教15章1―2、22―29節」
今日の第一朗読では、歴史上初の「教会会議」と考えられている「エルサレム会議(49年)」の開催の経緯が書かれています。この会議が開催される発端となった出来事は、パウロやバルナバが指導するシリア州のアンティオキアの教会共同体にエルサレムの中央教会に属する人びとが下って来て「割礼を受けなければ、あなたがたは救われない(1節)」と教えたことでした。
この背景にあるのは、先々週、先週の説教においても説明しましたが、当時のユダヤ人は、エルサレムを中心としたパレスティナに住むユダヤ人と、ローマ帝国の各都市にあったユダヤ人の居住地(ディアスポラ)に住むユダヤ人とに大別することができました。パレスティナのユダヤ人は割礼を受け、厳格に律法を守っていました。そのために律法において「汚れた者」とされる異邦人と交わることをしませんでした。それに対してディアスポラのユダヤ人は周囲の異邦人と交わりを持ち、彼彼女らが安息日ごとの会堂での礼拝に参加することを受け入れました。その際に異邦人にとって高い障壁となる割礼を受けることや律法を厳格に守ることを免除し、「神を畏れる者(『神をあがめる者』とも言います)」と呼んで、自分たちの信仰共同体に受け入れました。
当然ながら、そのようなディアスポラのユダヤ人の異邦人との交わり、ユダヤ教への受け入れを、自分たちをユダヤ教の「正統派」と自認していたパレスティナのユダヤ人は快く思ってはいませんでした。けれども、多くの者が「ローマ市民権」を有するディアスポラのユダヤ人を非難もしくは排斥することは、ローマ帝国の統治への介入とも取られかねないので、パレスティナのユダヤ人は反発しながらも黙認していました。
初代教会もこのような構図の中に取り込まれていたのです。当然ながら、エルサレムにあった中央教会は「パレスティナのユダヤ人(十二使徒を含む)」によって構成されていました。対してアンティオキアの教会は「ディアスポラのユダヤ人」によって構成されていました。その中でパウロは「神を畏れる者」に属する異邦人にもキリストを宣べ伝え、洗礼を授けていました。その際には当地のユダヤ教徒の習慣に従って、割礼を受けることも、律法を厳格に守ることも要求しませんでした。しかし、それを伝え聞いたエルサレムの中央教会に属する「パレスティナのユダヤ人」たちが反発したのです。先週も言いましたように、彼らは自分たちを「キリストを信じるユダヤ教徒」と認識していて、割礼、律法を守るのは「「ユダヤ教徒」として、当然のことであったのです。そのために中央教会の「「ある人々(1節)」がアンティオキアの教会に行って、「割礼を受けなければ、キリストの洗礼も無効になる」というようなことを教え、「パウロは間違っている」と非難したのであろうと考えられます。そのため「パウロやバルナバとその人たちと間に、激しい意見の対立と論争が生じた(2節)」のです。
これは「パウロやバルナバとその人たち」というような一部の人びとの対立ではなく、エルサレムの中央教会の「パレスティナのユダヤ人」と「ディアスポラのユダヤ人」との異邦人への宣教を巡る決定的な対立であったと考えられます。
この後、中央教会の「使徒たち」は、「ある人々」は「わたしたちから何の指示もないのに(24節)」として、自分たちの「指示」ではなかったとしていますが、はたしてそれが事実がどうであったのかは疑いの余地のあるところです。少なくとも「ある人々」がアンティオキアの教会に行くことを承認していたのではないか、と考えられます。
いずれにしても、現代の「バチカン公会議」に相当する「エルサレム会議」における、この問題の協議は相当に紛糾したことであろうと考えられます。けれども最終的には「割礼や律法の遵守は必要ない」とされます。その決定をアンティオキアの教会に伝えるに当たって使徒たちは「聖霊とわたしたちは・・・決めました(28節)」と書いています。つまり「わたしたち」ではなく「聖霊とわたしたち」とすることによって、これは「人間的な判断」ではなく「聖霊とともに聖霊に導かれて」なされた決定であると言っているのです。実際、「人間的な判断」に従っていれば、彼らは「伝統」を重んじて、割礼や律法の遵守を要求したであろうと思えます。けれども、このような自分たちの守ってきた「伝統」を打ち崩す、というきわめて困難なことを可能にしたのは、使徒たちが自分たちの思いではなく、「聖霊」に聞き従ったからであったとしか考えられません。
「聖霊」が人間的な考えの堅いカラを打ち崩したのです。それによって、初代教会は大きな一歩を踏み出すことができました。
第二朗読「ヨハネの黙示21章10―14、22―23節」
「ヨハネの黙示」は、皇帝(一般的にドミティアヌス帝⦅在位81―96年⦆が想定されています)を礼拝することを拒否したためにパトモス島に流刑にされたヨハネが、幻のうちに見たこの世の終末と救いの完成の有り様が描かれている「黙示文学」です。
本日の箇所でヨハネは「天使が、「 霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き・・見せた(10節)」と書いています。
この表現からわかることは、ヨハネが天使によって幻を見ることができたのは、ヨハネ自身に超能力など何らかの力があったからではなく、ひとえに「聖霊に満たされていた」からなのです。「聖霊」がヨハネに幻を見せたのであって、ヨハネ自身の能力や資質によるものではないのです。
第二朗読でもやはり、幻を見ることのできるような超常的現象は人間の力によってではなく、聖霊の働きによって初めて可能になる、ということが言われています。
福音朗読「ヨハネによる福音14章23―29節」
本日の福音、最後の晩さんにおける告別説教において、イエスは弟子たちに聖霊が遣わされることを約束されます。それは神の子の受肉、死と復活、昇天を通して、私たちにもたらされた「洗礼の秘跡」を通して、実現しました。
聖霊はもちろん、世の始め、天地の創造の時から、この世界の中で神のみ旨を実現すべく活動し、神の息吹として吹きわたっていました。
それがキリストの洗礼を通して、私たち一人ひとりの「中に」降って来てくださるのです。
イエスは弟子たちとともに生きた日々において「これらのことを話した(25節)」と言われ、聖霊が「すべてのことを教え、話したことをことごとく思い起こさせてくださる(26節)」と言われます。
私たちも聖書、みことばを通して、イエスと出会いますが、そのことばの意味は聖霊を通してこそ、理解することができるのです。また「思い起こす」は単に「思い出す」のではなく、ギリシア語においては、それは思い起こすと同時に「現在化」するという意味があります。
すなわち、私たちが読み、聞いたみことばが、聖霊の働きによって「現在化」し、「生きたことば」として、私たちの人格、人生に響いて来るのです。これは私たち自身の人間的な知恵や力によっては、けっして実現しません。
みことばにふれることは、単なる読書体験ではありません。みことばを通して働いてくださる聖霊によって、神と、またキリストとの交わりの体験なのです。
本日の三つの朗読に共通している教えは、人間の知恵や力には限界があり、聖霊がその限界を超えさせ、超越的な神の思いに人を導いて行ってくださるということです。