2025年6月1日 主の昇天(C年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭:林和則

本日は「主の昇天」の祭日です。ルカは「主の昇天」を歴史的出来事として視覚的に表現しています。それは本日の福音朗読の「ルカによる福音」の最後の箇所である「24章46―53節」と、福音に続いてルカが書いた第一朗読の「使徒たちの宣教」の冒頭の箇所である「1章1―11節」に、いわば「重複」して書かれています。ルカはあえて重複して書くことによって、「主の昇天」を「福音書」と「使徒たちの宣教」をつなぎ合わせる「つなぎ目」としているように考えられます。

他の福音書では、ヨハネはイエスの語られた言葉の中に「主の昇天」を表現しています。「人の子がもといた所に上るのを見るならば(6章62節)」「わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること(16章)」などです。マルコとルカでは直接的にも間接的にも、「主の昇天」について書かれてはいません。おそらく「復活」の神秘の中にもうすでに「昇天」の神秘は含まれていると考えていたと思えます。

ルカだけが「主の昇天」を「出来事」として視覚的に表現しているのは、福音書だけでなく、その後の教会の誕生と発展を書くルカにとって「主の昇天」は具体的な「出来事」とせねばならぬほどの重要性があったためだったからだと思えます。なぜならば「主の昇天」によってこそ「教会」の必要性が生じ、「教会」が誕生することになったと言えるからです。

「主の昇天」とは、受肉の神秘によって「目に見える人間イエス」となってくださった神の子が、三位一体の「神の子の座」に戻られて、再び「「目に見えない神」となられたということなのです。そのために今度は目に見える「教会」が、目に見えなくなったイエスに代わって、地上にあってイエスのことばとわざを続けて行く、つまりイエスの「宣教」を続けて行くことになったのです。だからこそ「教会」は「キリストの体」なのです。目に見えなくなったキリストに代わって「宣教」を続けて行くために「教会」は誕生したと言えます。逆に言うと、もし教会が「宣教」を行っていなければ、その教会は「キリストの体」ではない、ということになります。「教会」にとって「宣教」は欠くことのできない本質的要素なのです。だからこそ、来週の「聖霊降臨」によって「教会」が誕生した時、ペトロら使徒たちは「教会」として真っ先に「宣教」を行ったのです。

ただ、ルカの意図は理解できるのですが、視覚的な「主の昇天」の表現は、読む人びとに誤解を与えてしまう恐れがあります。

「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった(「使徒たちの宣教1章9節」)」を読んで、私たちは「イエス

が空高く昇って行って、やがて小さくなって雲の中に消えてしまって行った」というような映像を思い浮かべてしまうと思います。けれども、あくまでも「天」であって、物理的な空間である「空」ではないのです。また、「雲に覆われる」という表現は聖書では「神性に覆われる」という意味です。つまり、イエスは三位一体の神の座である「天」に戻り、「目に見えない神」に戻られたということが表現されていて、実は具体的ではない、象徴的表現であったのです。

そして「天」も物理的な「空」の上に在るわけではありません。旧約の時代から人類の歴史と共に歩んでくださる神の座は、人類と共に、私たちを包み込むようにして「在る」のです。ですから、イエスは私たちから遠く離れて、どこか別の世界に行ったのではありません。私たちと共に在る神の座に戻られたのであって、目には見えなくとも、いつも私たちと共にいてくださるのです。

「主の昇天」は「神の子が三位一体の中の神の子の座に戻られた」ということなのですが、神の子が受肉の神秘によって「人間イエス」となって戻られたということに、私たちの救いに関する決定的な意味があるのです。

本来、神の座である「天」は「父である神」「子である神」「聖霊である神」の交わりの場であって、それは完全な「神」だけの座であって、そこに「人間」が入る余地は全くなかったのです。それが神の子が「人間イエス」を受けられたままで、神の子の座に戻ったことによって、神の子の座に「人間」が入ることになったのです。

このことを教皇ヨハネ・パウロ2世の命によって1992年に編纂された「カトリック教会のカテキズム(日本語版2002年)」では次のように表現しています。

「人性が雲と天とに象徴される神の栄光(神の座)に決定的に入ること(199頁)」

また、三位一体の聖体宣教修道女会会員のトーレス=アルピは次のように「主の昇天」を黙想しています。

「ご昇天をよく観想するとき、人間性が神の中に入って立つのが見られます」

「言言 たちの霊性」サンパウロ37頁

それまで、「神」だけであった三位一体の神の交わりに「人間性」が、「人間イエス」が入ったのです。それによって、私たち人間が父と子と聖霊の愛の交わりに「人間イエス」を通って「入る」ことができるようになったのです。まさにイエス・キリストは私たちのための「天の門」となってくださったのです。

この三位一体の神の愛の交わりこそが「天国」なのです。

「天国」とは、美しい風景があって、美しい音楽が流れていて、おいしい食べ物がある、といった「場所」ではありません。そのような風景や音楽や食べ物や場所は「肉体」があってこそ、味わえるものなのです。肉体に備わっている五感、見る、聞く、におう、味わう、さわることによって、味わい、楽しむことができるのです。けれども、「死」によって「肉体」が滅び、「霊魂」だけになってしまえば、五感によって得られる喜びや楽しみは味わうことができなくなります。

それでは「霊魂」は何を「喜び」とするのでしょうか。それは「愛」、「愛の交わり」にほかなりません。私たちはそのことを地上の生活においても、どこかでわかっているのです。

簡単な例を出せば、ある人が大きな家に住んで、金もモノも社会的地位も豊かに持っているとします。けれどもその家に住む家族がバラバラで互いに顔を合わせることもなく、部屋に引きこもって、それぞれが孤独であるとするならば、どんなに金やモノや地位があっても、その人は「幸せ」であると言えるでしょうか。逆に小さな家に住んでいて、金やモノや社会的地位がそれほどなくとも、そこに住む家族が本当に愛し合っていて、いつも会話と笑いがあり、互いを大切にしあっていれば、金やモノがなくとも「幸せ」を感じることができるでしょう。

私たちはこの世にあっても、どこかでわかっているのです。「幸せ」はお金やモノや社会的地位によって得ることはできない、愛し合う人がいることによって得ることができる、ということを。けれども、私たちは金やモノや社会的地位にごまかされて、本当の「幸せ」を見失ってしまいがちになるのです。

そして、私たちの愛は「不完全」です。「愛」とは自分を相手に与えることです。けれども私たちは「与える」だけでなく「求めて」しまいます。また、「愛する」に当たって、条件をつけてしまいます。「自分の好みだから」「自分にやさしくしてくれるから」など、その「条件」に適う人を愛し、適わない人を愛することは困難なのです。

完全な愛はイエスが十字架を通して示してくださいました。自分を完全に与え尽くし、しかも相手を選ばず、無条件で、敵でさえも包み込む、まさに「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい にも正しくない にも雨を降らせてくださる(マタイによる福音5章45節)」無制限の「愛」なのです。

それにたいして、私たちは家族や友人や夫婦などの交わりであっても、時に傷つけ合ってしまうような不完全な愛の交わりしか持てません。けれども、そのような不完全な愛の交わりであっても「喜び」を「幸せ」を感じることができるのです。

だとしたら、神の愛の交わり、完全な愛の交わりに入ることによって、どれほどの喜びと幸せを味わうことができるのか、地上を生きる私たちには想像することができません。ただ、信じるだけです。

神の救いのご計画の完成は、私たちをご自分の愛の交わりに招き入れることであったのです。それはけっして、上から目線の「かわいそうだから入れてあげよう」というものではなくて、私たちを愛するあまり、私たちといつまでも共にいたいから、というただただ、私たちへの創造を絶する「愛」によるものなのです。

最後の晩さんの告別説教の中で、イエスは私たちのために、天の父に向かって祈ってくださいました。

「あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください(ヨハネによる福音17章23―24節)」

「「わたしのいる所」こそが三位一体の神の愛の交わりの中における「神の子の座」なのです。

キリストは、私たちをご自分の神の子の座に招き入れるために、人となられたのです。私たちはその中でイエスと共に、父なる神の愛に包まれて、永遠に生きることになるのです。これが、私たちの「天国」です。