2025年7月6日 年間第14主日(C年)のミサ
カトリック香里教会主任司祭:林和則
本日の第一、第二朗読、福音朗読に共通する言葉は「平和」です。聖書においては「平和」はヘブライ語の「シャーローム」に依拠しています。「シャーローム」の意味を、本日の「聖書と典礼」の第一朗読における注釈では次のように説明しています。
「単に戦争や争いがないということではなく、神の恵みに満たされた状態を表すことば」
「シャーローム」の「平和」は人間が作り出す「平和」ではありません。あくまでも神によってもたらされる「恵み」としての「平和」です。
第一朗読「イザヤの預言66章10―14c」
本日の「イザヤの預言」は「第三イザヤ」と呼ばれている預言者の預言です。第三イザヤはユダヤの民がバビロンの捕囚から解放されて、故国の地に戻り、エルサレムの再建がほぼ達成された時代に預言活動を行いました。「エルサレムと共に喜び祝い(10節)」で始まっているように、神殿の再建も実現したエルサレムにおいてユダヤの民が喜び祝っている中での祝福の預言のように思えます。
けれども、実際はユダヤの民は深い絶望の中に落ち込んでいたのです。確かに神殿も含めエルサレムの市街地の復興はほぼ達成されましたが、ユダヤの民がもっとも切望していた国家としての独立、ユダ王朝の再興という夢がかなうことはないという現実を突きつけられたからです。エルサレムの街、また神殿の再興もペルシア帝国の援助によって可能になりました。けれども、ペルシア帝国にとってそれは「善意」によるものではなく、あくまでも「占領政策」の一環として実施したにすぎなかったのです。実際にユダの地はペルシア帝国の植民地として「ユーフラテス西方管区」に組み入れられました。ダビデ王から続いていたユダ王朝の最後の子孫もペルシアによって暗殺されました。
結局、ユダヤの民はペルシアという大国の枠の中で、大国の論理と秩序による「平和」を与えられていたのです。ユダヤ、イスラエルの民は絶えず、この大国の押しつける枠の中での「平和」の中に閉じ込められ続けて来ました。エジプト、アッシリア、バビロニア、ペルシア、アレクサンドロス大王のギリシア、シリア、そしてローマというように。イスラエルは絶えず人間の作り出す「平和」にしばられてきました。人間の作り出す「平和」とは所詮、自分たちの考えに他人を押し込もうとするものなのです。それをイスラエルの民は、弱小国の歴史を通して、痛切なまでに実感していたのです。
けれども、神の与える「平和」は人を解放し、自由にし、その人らしく生きる喜びを、互いに愛し合う喜びを与えてくれる「平和」なのです。第三イザヤはその「平和」が与えられることを預言します。
「見よ、わたしは彼女(エルサレム)に向けよう平和を大河のように、国々の栄えを洪水の流れのように(12節)」
この「平和」こそが、ヘブライ語の原文では「シャーローム」です。人間ではなく、神が恵みとして与えてくださる「平和」です。
けれども、おそらく、当時のイスラエルの人びとはこの預言を実現することのあり得ない、むなしい絵空事として受け止めたことでしょう。それほど、大国の圧倒的な力の論理の下に押さえつけられていたからです。
現代の私たちもそのような状態に近いと言えるでしょう。アメリカ、ロシア、中国が力によって、世界秩序を自分たちの思い通りに変えて、自分たちの「平和」を押しつけようとしているかのような状態に思えるからです。
けれどもイザヤはそのような閉塞的な状況にあっても「喜びなさい」と人びとに訴えたのです。それはイザヤが神のことばに希望を置いていたからです。どのような状況にあっても、神を信頼していたからです。これこそが「信仰」です。
私たちも「信仰者」として、どのような状況にあっても神を信頼し、神からもたらされる「シャーローム」が、この世界に実現しますようにと祈り求めましょう。絶望は神への信頼を捨て去ることになるからです。
第二朗読「使徒パウロのガラテヤの教会への手紙6章14―18節」
パウロは「平和(16節)」は、「新しく創造されること(15節)」によって実現すると言います。それはもちろん、キリストの洗礼を受けることによって、古い自分に死に、神の子として新たに生まれ変わることです。そして「このような原理(16節)」とは「神の子キリストの福音」であり、福音に従って生きて行く人びとこそが新たな神の民となって、その人びとの集いであるキリストの教会の上に「平和」が実現すると言っているのです。
大切なことは、キリストの洗礼を受けただけでなく、キリストの福音に従って生きることによって初めて、「平和=シャーローム」が実現するということです。
私たちの香里教会も、一人ひとりが「福音に従って生きる」ことによって「シャーローム」が神から与えられるのです。逆に、一人ひとりが「自分たちの思いに従って」生きていれば、「シャーローム」はなく、おたがいの思いがぶつかり合って、絶えず争いが生じてしまうことになってしまうでしょう。
福音朗読「ルカによる福音10章1―12、17―20節」
マタイ、マルコ、ルカの共観福音書には共通して、イエスによる「「十二使徒の宣教への派遣」の記事が書かれています。ヨハネには書かれていません。そして、本日の「七十二人の宣教への派遣」はルカだけが書き記しています。「七十二人」とはいったい、どのような人びとであったのでしょうか。その答えは「七十二」という数字の中にあります。聖書では、数字に意味が持たされているからです。
「七十二」は「十二×六」です。「十二」は、もう皆さん、ご存知でしょう。
イスラエルの「「十二部族」に象徴されているように、「神の民」を表す数字です。
では「六」は?聖書では「七」が「完全数」です。そのため、「六」は「不完全」「まだ完成されていない」ということを表す数字です。
さあ、「神の民」と「不完全」、そして「宣教」をかけ合わせてみましょう。すると「神の民による宣教はまだ完成されていない、まだ終わっていない」つまり「神の民による宣教は今もまだ続けられている」ということを表していると考えることができるのです。きっとルカは「十二使徒の宣教によって、宣教は終わったわけではない、世の終わりまでキリストの洗礼を受けた人びとによって、宣教は続けられて行くのだ」と、私たちに伝えたかったのだと思います。
そうです、この「七十二人」の中には「私たち」も入っているのです。今日、イエスは福音書を通して、私たちに向かって「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす(3節)」とお命じになられたのです。
「ミサ」というラテン語は「派遣」という意味です。ミサの最後の司祭の会衆への呼びかけ「行きましょう(ラテン語では『イッテ・ミサ・エスト』)、主の平和のうちに」は「家に帰りなさい」ではありません。「これからの一週間、あなたの生きている家庭、地域、学校、職場の中で宣教に行きなさい」と宣教に向けて皆さんを「派遣」しているのです。「ミサ」を受けた皆さんは、キリストから宣教に「派遣」されて行くのです。「ミサ」は宣教に「派遣」されて行くための力を頂く場なのです。みことば、ご聖体、共同体の交わりから力を頂くのです。
では、宣教をどのように行えばよいのか、それをイエスは本日の福音を通して、私たちに教えてくださっています。
まず、「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい(2節)」と言われます。これは「誰かを送ってください」というような受け身的にではなく、「私を働き手として送ってください」と願いなさいということなのです。私たちは自分の力では宣教を行うことはできません。神の力によってこそ、行うことができるのです。ですから、私たちは絶えず神に「私をあなたの働き手として送ってください」と願い求めつつ、宣教を行うのです。
次の「「財布も袋も履物も持って行くな(4節)」も先のことばに関連しています。自分の持っている能力に頼るのではなく、むしろ何も持たずに「空の手」になって、ただ神を信頼して、全てを神に委ねよ、ということです。私たちは自分を「からっぽ」にすることによって、神が私たちの中で働いてくださるようになることができるからです。
「途中で誰にも挨拶をするな(同上)」は「家から家へと渡り歩くな(7節)」と関連づけて考えればいいと思います。ここでイエスは「売名行為」を禁じていると思われます。今、世間では参議院選挙の真っ最中で、連日、候補者が自分の名前を連呼しています。このように、人に挨拶をして回ったり、家々をわたり歩くことは、自分をアピールするためなのです。つまりは宣教を自分の名を売るための「手段」にしているわけです。自分の社会的成功、地位を得るために行う「宣教」は「神の国」のためでなく、「自分」のためにすぎないのです。私たちは「宣教」を「目的」として、自分をそのための「道具」とするべきなのです。
そして「町に入っても、迎え入れられなければ(10節)」「足についたこの町の埃さえも払い落として(同節)」というルカの表現は、まるで拒否した町への「呪い」のように思われます。ルカよりも先に成立したマルコの並行箇所では単に「彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい(マルコ6章11節)」と書かれているだけです。ルカのように「その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む(12節)」というような、懲罰的な表現はありません。
おそらく、イエスがこのことばにこめた思いは「よけいなものは捨ててしまえ」だったのではなかったでしょうか。私たちは自分の思いや考えを他者から拒否された時、相手に対して怒りや憎しみを覚えてしまいがちです。もしくは拒否された悲しみに落ち込んでしまいます。けれども、私たちは自分のために宣教しているわけではないのです。また、自分の力で宣教しているわけでもありません。
神に使って頂く「道具」にすぎないのです。そんな怒りや憎しみ、悲しみなどの自分へのこだわりから生じる「心の埃」は全て払い落として、まっさらな心で、また次の町に宣教に向かいなさい、ということをイエスは言いたかったのだと思えるのです。
そして何よりもイエスは「まず、『この家に平和があるように』と言いなさい(5節)」と言われます。宣教は相手に「平和」を願うことによって始めなさい、とイエスは言われているのです。この「平和」はもちろん「シャーローム」です。
ですから、私たちが与えるのではなく、私たちを通して、私たちが出会った人に神が「平和」を与えてくださるのです。ある意味、私たちが宣教するのは、神と人とのかけ橋になることであると思えます。
私たちも今日、出会った人のために「平和」を願いましょう。「平和」を願う者として、相手に接しましょう。仮に何もできなくても、出会った相手(その『出会い』は神が与えてくださったものです)のために「平和」を願いましょう。
それだけでも、立派な「宣教者」です。