2025年6月15日 三位一体の主日(C年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭 林和則

*当日の9時半のミサは「子どもとともにささげるミサ」を行い、説教も子どもたち向けに行いました。この「説教の要約」は7時のミサの説教に基づいています。

本日は「三位一体」のお祝い日です。私たちはいつも祈りとミサを始めるに当たって「父と子と聖霊の御名によって、アーメン」と唱えます。これに補足説明を加えて言い換えれば、次のようになるでしょう。

「私たちはこれから、父と子と聖霊のお名前を持った神であるあなたに向かって祈ります(ミサを捧げます)、アーメン(そうです、そう信じています)。」

キリスト教の神の名は「父と子と聖霊の神」なのです。「名は体を表す」と言われているように、この御名も神の在り方、その本質を示しています。それは「父である神、子である神、聖霊である神」という「三位の神」です。

しかしながら、この三位の神が三つの位格(ペルソナ)を有しながらも「唯一の神」なのです。それを「三位一体の神」と呼びます。

ではなぜ、「三位の神」が「唯一の神」なのか、これについては初代教会の頃から盛んに解釈、議論されてきました。時にはこの議論が教会に分裂をもたらすほど解釈が多種多様で、難解で重大な神学的命題でした。

大切なポイントは三位一体の神がどのように「存在」しているのかではなく、どのような「関係」にあるのかという視点で考えることです。

「父である神」「子である神」「聖霊である神」は「愛し合っている」という関係性によって結ばれています。「三位一体の神」とは「愛の交わりの神」なのです。しかもその愛は十字架のイエスの姿に示されているように、完全に自分を相手に与え尽くす(自己譲与)愛です。そのため、三位の神はそれぞれに自分を相手に完全に与え尽くしているがゆえに「一体」となるのです。

このように説明しますと、何だか数学の公式のようですが、大切なことはこの三位一体の神秘が私たちの救いに関わっているということです。

「父と子と聖霊の愛の交わり」に私たちを招き入れることこそが神の救いのご計画なのです。そのために神の子が人となり、死と復活の過ぎ越しを経た後に天に昇られたのです。「天」は「父と子と聖霊の神の座」であり、神の子はその「神の子の座」にイエスという「人間性」を帯びられたままで戻られたのです。それによって「父と子と聖霊の愛の交わり」の中に人間性が入りました。それはまさに人間にとって「天の門」が開かれたことだったのです。私たちは「人間イエス」を通って三位一体の神の愛の交わりに入って行くことが可能になったのです。

これら全てはご自分の愛の交わりに私たちを招き入れるための神の救いのご計画でした。神の愛の交わりに招かれていること、これこそが私たちの「天国」であり「救い」です。逆説的に言えば、神はご自分の交わりの中に私たちを招き入れるために「三位一体の神」となられたと言えるでしょう。それはただただ、「神が私たちを愛している」という、ひとことに尽きます。

第二朗読「使徒パウロのローマの教会への手紙5章1―5節」

本日の箇所は前教皇フランシスコが2025年の通常聖年の大勅書として発布された「希望は欺かない」の典拠とされている箇所です。この大勅書に基づきながら、本日の箇所を味わってみたいと思います。

フランシスコは「希望と密接に結びついた徳、すなわち忍耐(11頁)」というように「忍耐」を「希望」と切り離せない徳として重視します。そして現代人が忍耐の徳を失いつつあると警告します。

「つねに慌ただしくあることが当たり前になった世界では、わたしたちは何でもすぐに欲しがることに慣れてしまっています(同頁)」

大量消費社会に生きる私たちは企業による目まぐるしい商品開発によって絶えず、より利便性や娯楽性の高い商品を迅速に供給されることに慣れてしまっています。

また効率化を求める社会の中ですぐに「結果を求める」傾向があります。「待つ」ということができず、落ち着いて考えることもできずに「次を、次を」といつも追いかけているような状態です。

「忍耐は慌ただしさによって追い払われ、人びとに深刻な損害を与えています。(同頁)」 さらにフランシシコはインターネットの普及によって大量の情報をすぐに手に入れられることによって、現代人が「『今ここで』という考えに支配されている(同頁)」と憂慮しています。「今でなくても、ここでなくても」と別の時や場を待つ、探すための忍耐を失ってしまっている、ということです。

フランシスコは忍耐を「聖霊の実(12頁)」と呼んでいます。そして「忍耐は、希望を生き生きと保たせ、それを徳としても生き方としても強めてくれます(同頁)」と言って、希望は忍耐なくしては保つことはできないとしています。

そして希望はキリスト者が信仰生活を生きるための「伴侶」であるとします。

「キリスト者の人生は、目的地である主キリストとの出会いを垣間見せてくれるかけがえのない伴侶、すなわち希望を養い強める絶好の機会をも必要とする旅路(同頁)」

「主キリストとの出会い」こそが、「父と子と聖霊」の「神の子の座」におられる「人間イエスとしてのキリスト」のもとへと招かれて、そこでキリストと出会い、共に神の愛の交わりを永遠に生きることを指しています。神の愛の交わりに招かれていることが私たちの「希望」であり、人生の旅路を歩む力であり、共に歩んでくださる「伴侶」なのです。この「希望」は「忍耐」によって強められ、保つことができるとフランシスコは力説しているのです。

私たちも現代社会の流れに吞みこまれてしまって、効率を求め、すぐに目に見える結果を得ようとする性急さに捕らわれてしまわないように、いつも立ち止まって、神の思いを祈り求めることを可能にする「忍耐」の徳を神に願い求めましょう。私たちの「希望」はすぐに手に入るものではなく、人生の長く苦しい旅路を経た後に実現するものだからです。

パウロが「希望はわたしたちを欺かない(5節)」と断言する根拠は「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです(同節)」と語ります。

聖霊が「神が私たちを愛してくださっている喜び」で私たちを満たしてくださるのです。この喜びが私たちの「希望」の源です。どのような困難な状況にあってもパウロたちが「忍耐」できたのは、この「希望」に支えられていたからです。

福音朗読「ヨハネによる福音16章12―15節」

本日の福音は最後の晩さんにおけるイエスの「告別説教」の最後に近い箇所です。イエスは次のように弟子たちに言われます。

「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない(12節)」けれども、弟子たちを励ますかのように、続けて言われます。

「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる(13節)」

この「真理の霊」が「聖霊」です。先週の「ヨハネによる福音」の14章26節では「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と言っておられました。そこでは聖霊は「すべてのことを教え」と言われています。この「すべてのこと」とはイエスがことば、わざ、またご自分の生きざまを通して啓示された「すべてのこと」なのです。

本日の福音で言われている「真理をことごとく悟らせる(13節)」の「真理」も抽象的な教えではなく、イエスという全人格を通して示された「真理」なのです。告別説教の別の箇所では「わたしは道であり、真理であり、命である(14章6節)」と言われています。つまりイエスという存在そのものが「真理」なのです。

その「真理」を弟子たちが「理解できない」のは、弟子たち個人の能力の問題

ではありません。それは「個人」を超えた「人間」としての限界によるものです。人間的な知識、思考によっては、イエスという「真理」を理解することができません。それは「聖霊の導き」によって初めて理解することができるのです。

ですからイエスは聖霊が「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と言っておられるのです。

またイエスは、聖霊は「わたしのものを受けて、あなたがたに告げる(14節)」と言われ、「わたしのもの」については「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである(15節)」と言われます。

イエスという「真理」は、父なる神の「真理」そのものであり、それは「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる(14章10節)」ようにイエスと父なる神はひとつであり、それゆえに「わたしを見た者は、父を見たのだ(14章9節)」と言うことができるのです。

神のすべてがイエスによって啓示されましたが、それは人間には理解することのできない「神の神秘」であって、聖霊の導きなしには理解することができないのです。