2025年6月8日 聖霊降臨の主日(C年)のミサ
カトリック香里教会主任司祭:林 和則
第一朗読「使徒たちの宣教2章1―11節」
本日の「聖霊降臨の主日」はまた、「教会の誕生日」でもあるお祝い日です。それは「聖霊降臨」が弟子たちにとっての「洗礼」であったからです。聖霊による「キリストの洗礼」を受け、弟子たちはまことの「キリスト者」となったのです。「キリストの洗礼」は聖霊の働きによって、キリストの過ぎ越しである死と復活が受洗者の霊において現在化する秘跡です。霊的に古い自分に死んで、新たに神の子として生まれ変わるのです。「キリストの洗礼」を受けたことによって弟子たちは「旧約の民」から「新約の民」へと過ぎ越し、「キリスト者」となったことによって「キリストの教会」が誕生したのです。
ただ聖霊ご自身は天地創造の初めからこの地上に降って、神の思いを実現するために働き続けていました。それが「キリストの洗礼」を通して、聖霊が私たち一人ひとりの「中に」降臨して、外からではなく、直接、私たちの中で働いてくださるようになったのです。私たちは聖霊を自らの内に宿す「聖霊の神殿(一コリント6:19)」となる恵みを頂いたのです。私たち一人ひとりにとっては洗礼を受けた日こそが聖霊降臨の日です。
聖霊を受けて「聖霊に満たされた(4節)」弟子たちは「霊が語らせるままに(同節)」宣教へと向かいます。聖霊の働きは絶えず私たちを「宣教」へと向かわせます。それは義務感からではなく、聖霊が与える信仰の喜びからあふれ出た、つき動かされるような、感謝の表出なのです。
そして聖霊の促しによる弟子たちの初めての宣教に大きなしるし(奇跡)が現れます。弟子たちはおそらくパレスティナ地方の公用語であったアラマイ語で語ったと思われます。けれどもそれを聞いた、あらゆる国にあったディアスポラ(ユダヤ人の居住地)から来ていたユダヤ人が「めいめいが生まれた故郷の言葉で聞く(8節)」ことができたのです。
教会は伝統的にこのしるしを創世記の「バベルの塔(11:1―9)」と関連付けて解釈してきました。バベルの塔において散らされた人類の言葉が再びひとつにされた、という解釈です。ただ「ひとつにされた」という表現は誤解を招きやすいと思えます。言葉はひとつになったのではなく、あくまでもそれぞれの言葉のままなのです。「言葉」はそれぞれの国、民族の文化の象徴です。神はそれぞれの文化をひとつにすることを望まれないのです。
バベルの王は自らの国の文化(ことば)こそが最高であると絶対化した結果、他の国の文化を否定し、自国の文化を他の国々に強制して「ことば」をひとつに
しようとしたと考えられます。それゆえに神は「バベルの塔」を破壊されたのです。神が望まれる世界は多様な文化が花咲く豊かな世界なのです。いろんな人がいていい、いろんな考え方があっていい、それが世界を、人間を豊かにする、けれども「福音」によって人びとはひとつになることができる、そうです、神の望まれる一致は「多様性の一致」なのです。お互いの違いを認め、尊重し合い、そしてともに「福音」を生きることによって一致することができるのです。そのような多様性こそがキリスト教の本質であると言えると思います。
教皇フランシスコは生前、トランプ大統領を「キリスト教徒ではない」と言われました。それはトランプ大統領が「多様性」を認めず、排除しようとしているからです。私たちが「キリスト教徒」であるためには「多様性」を受け入れることが必要になるのです。
そしてまた、このしるしは宣教するに当たっての大切な姿勢を教えてくれています。それは神のことばをそれぞれの国の言葉で語りなさい、それぞれの国の文化に受容させなさい、いわゆるインカルチュレーション(文化的受肉)の姿勢です。けれどもカトリック教会はかつてはこの姿勢を忘れてしまい、ラテン語を絶対化し、ヨーロッパ文化の中で受容された信仰形態のみを強制する方向に傾いていました。それが「聖書に回帰する」ことを大前提とした第二バチカン公会議によって修正されて、典礼もそれぞれの国の言葉で行うことができるようになりました。それは本日の「使徒たちの宣教」の箇所に学んだ結果なのです。
インカルチュレーションの努力は今もさまざまな国で続けられています。そして、日本におけるインカルチュレーションは私たち一人ひとりの努力に委ねられているのです。
第二朗読「使徒パウロのローマの教会への手紙8章16-25節」
本日のパウロの手紙の中で皆さんの注意を促しておきたいのは「肉の支配下(8節)」と「霊の支配下(9節)」というように、「肉」と「霊」とが対立し合っているとする表現についてです。これはけっして「肉体と霊魂とが対立し合っている」という意味ではありません。キリスト教の思想は、母体であるユダヤ教に基づいています。ユダヤ教には人間の存在を「霊魂」と「肉体」とにふたつに分離して考えるような二元論的思考はありません。それは当時においてはギリシア的な思想に基づくものでした。そのような二元論的な人間観においては「霊魂」が尊ばれ「肉体」は汚れたものとして蔑視されがちになります。
このような霊肉分離による肉体蔑視はユダヤ教にもキリスト教にも本来はなかった視点だということを頭に置いてもらって聖書を読んで頂きたいのです。でなければ間違った信仰理解に陥りかねません。
私たちは信仰宣言において「からだの復活を信じます」と宣言します。この「からだ」とは「肉体」ではありません。「肉体」と「霊魂」とが分かちがたく結びついた「からだ」なのです。いわば、私たちの人間としての人格、人生を生きて来た体験によって培われた自己など、全てを含めた「私」という全存在です。「体験」は「肉体」を通して行われますので、私たちの「全存在」は「肉体」なしにはあり得ないのです。
パウロの手紙において「肉」と「霊」と言われる時、それは「生き方」の問題なのです。
「肉による生き方」とは神の思いではなく、自分の思い、またこの世的な価値観(お金や名誉を求める)に従う生き方です。「霊による生き方」とは利己的なものではなく神の思いに従う生き方なのです。
「肉」の生き方とは所詮、人間の「業」つまり「働き」にすぎません。自分の考え、思い、企み、行いだけによる「業」にすぎないのです。けれどもだからこそまた、それを自らの力だけによって成し遂げた「業」であると誇り、おごり高ぶるのです。
けれども「霊」の生き方はその人の「業」ではないのです。神がその人の内に働いて、実を結ばせてくださるのです。人間の「業」ではなく、神によってもたらされる「実り」なのです。霊に生きる人は自分を空しくする(空っぽにする)ことによって、神がその人を使って働いてくださるのです。
神は私たちが霊に従って生きることができるようにと、キリストの洗礼を通して「神の子とする霊(15節)」を与えてくださったのです。
パウロは「この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです(15節)」と書いていますが、パウロは「主の祈り」を念頭に置いています。
私たちが日々の祈りやミサの中で唱える「主の祈り」は「天におられるわたしたちの父よ」で始まりますが、これは「マタイによる福音6章9―13節」に書かれている「主の祈り」に基づいています。「ルカによる福音11章2―4節」に書かれている「主の祈り」では、単に「父よ」で始まっています。イエスは日常語のアラマイ語で「主の祈り」を弟子たちに教えられたと考えられています。パウロが書いている「アッバ」はアラマイ語で「父」の意味です。しかも幼児語であって、幼い子どもが父親を呼ぶ時に使う言葉なのです。日本語で言えば「お父ちゃん」「パパ」になるかと思います。
イエスの「主の祈り」の冒頭は「アッバ」であったことが、このパウロの表現によっても推測できます。以下のようであったのです。
「アッバ、み名があがめられますように。み国がきますように」
幼児は自分の力では生きてはいけません。また、幼児にとっては父と母は世界中で、もっとも大好きで、素晴らしい人なのです。イエスは、幼児のような心で神を「アッバ」と呼びなさいと教えてくれているのです。
それはまた、世の親がそうであるように、神にとっては私たちはご自分の幼子のように愛おしい存在であると、イエスは教えてくださっているのです。
「天におられるわたしたちの父よ」と唱える時、重々しく唱えるのではなく、「大好きなお父ちゃん」と、子どものように、父親の胸に飛びこんで行くようにして、神に呼びかけましょう。
福音朗読「ヨハネによる福音(14章15―16節、16章23b―26節)」
本日の福音は、イエスの最後の晩さんにおいて弟子たちに語られた「告別説教」と呼ばれている教えの一部です。その中で聖霊は「弁護者(ギリシア語原文ではパラクレートス)」と呼ばれています。ただ、「ヨハネの福音」の記者は「ヨハネの手紙」の中ではイエスのことをも「弁護者(パラクレートス)」と呼んでいます。
「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます(ヨハネの手紙一2:1)」
ふたりの弁護者がいることになりますが、役割が違うのです。先の手紙ではこのように続けます。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償う方です(同上2:2)」イエスは私たちの罪を償い、私たちのために父なる神に執りなしてくださる方なのです。
たいして聖霊は「すべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる(26節)」方なのです。
「わたしが話したこと」は単に「話したこと」だけではなく、イエスがその生きざま、ことば、わざを含めた全人格によって啓示された「神のことば」を示しています。そして「思い起こす」はギリシア語では「アナムネーシス」であり、それは単に「思い出す」だけではなく、それが「現在化」する意味を持っています。私たちが福音書を通してイエスのことば、わざ、生き方を思い起こす時、それは「現在化」して、イエスが今、私に語りかけ、交わりを持ってくださることになるのです。それはこの後の「感謝の典礼」において「最後の晩さん」を「記念(アナムネーシス)」することによって、「最後の晩さん」が「現在化」するのと同じことです。「現在化」は聖霊の働きによって実現するのです。
私たちの信仰生活はふたりの弁護者によって守られ、導かれています。
私たちは弱さのゆえに絶えず罪を犯します。けれどもその度にキリストは私たちの罪をあがない、父なる神にゆるしを求めてくださいます。
聖霊は私たちにキリストの姿、生き方を「現在化」して、私たちがいつもキリストと共に生きることができるようにしてくださるのです。